2011年5月31日火曜日

記憶・イメージ・認識・文字・詩

おはようございます。
最近肩こりがひどい落合です。

今日はやってみたいことをメモ的に書こうと思います。
(もちろん修士制作においてです)

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記憶・イメージ・認識・文字・詩

『ある場所の話。そこに関係する人々にはそれぞれの記憶と認識、イメージがある。』

例えば工場。
ある人にとっては職場であり工場で、違う人にはただの建築物で、
近所の子供にとっては工場という遊び場だったり、
それら以前に記憶にさえも残っていない場合もある。
他にもそこは元々○○さんの家だったという老人もいるかも知れないし、
中には悪いものとして認識している人もいるかも知れない。

これは「工場」というイメージや場所に対して、受け取る人の記憶や経験、
感受性の違いなどから生まれる認識の差異によって起こりうる現象である。

辞書などには「工場」という名詞について文章によって説明されている。
だが、それは指す言葉に対してミニマルで抽象的なイメージを文章にしたものなのではないだろうか。
なぜなら人は上記のように、もの、場所に対するイメージは必ずしも同じとは限らない。

それらのことを考えた時に、
主観的ではあるが「場所のイメージ」と「詩」は近い気がした。

もともと詩は詩人がミニマルな文章で詠う性質上、
読み手の認識にイメージを委ねている部分があると私は思っている。
例えば中野重治の「歌」という詩にある「おまえ」は作者自身を指しているというのが一般的見解だが、
他の人間という人も少なからずいるだろうし、違った捉え方をする人もいるだろう。

〈中野重治、歌〉
https://www.slownet.ne.jp/sns/circle/200511022132-2000001/bbs/200810261354-1000000

このように「詩」も「場所のイメージ」も人それぞれの感じ方に存在が委ねられており、
十人十色の認識がある。

それを跡地利用という考えの魅力の一つの要素として上手く使えないだろうか?
敷地の場所性と建築とともに、周辺の住民が持っているイメージも跡地のコンテクストとして捉え、
その地域の新しい風景を創造する。
敷地に以前あった建築の認識が違うからこそできること。
言葉でその場所を説明する際は一人一人が違うことを言うような、
読み手(そこを訪れる人)に認識を委ねながらも、ある目的を持った跡地。

そんな跡地をデザインしてみたい。

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すいません。
やっぱり最後がまとまらない。しかも文章下手なのでそれもすいません。
書いたら余計にもやもやしてしまいました。
ちゃんとまとめられたら、また書き直します。

ではでは。

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